1983年、僕はNew York、5th アベニューに立って吹き始めた。(1)

、マンハッタンへ近づく車のなか、ラジオからは、赤い心臓のように生々しいレッドツェッペリンが聞こえてくる。荒廃したブロンクスのビルは、異邦人の侵入を防ぐかのように灰色の壁が狭く反りかえってくる。リバーサイドを走っていくとまるで、別世界のように広がる緑色の向こう岸が、こちら側を静かに眺めている。どぼどぼと止めどもなくあふれる夢を食べて、ますます膨れ上るこの都市にその車は吸い込まれるようにして入っていった。

「いやな感じだ」。これから来ることを予感していたのか、僕は意味のない不安に襲われた。

「仕事ください」、僕はビレッジの日本食レストランに入っていった。開店前にたむろしていた従業員が皆、ぎょっとした顔でこちらを見たのがわかった。
「またサモンみたいなのが来たぞ!」
「サモンって何ですか?」と僕が聞く。
「そういうお前みたいな頭をしているやつがいるんだよ。」
(僕はきれいに髪を剃り落としてスキンヘッドにしていたが、サモンの頭のてっぺんにはモヒカンの毛が少し残っていた。) キッチンヘルパーの仕事でももらえればとりあえず食っていける。 変な奴のほうが生きていきやすい世界もある。
昔、バークリー音楽院でヘンリー・カストンという黒人と問答をした。
「俺のヒゲは毎日のびるが、それは不思議なものだ。」
「それが君の想像力だよ。」
『DIG IT!』と彼は叫んだ。
僕の髪の毛も毎日そるのが面倒で、しばらく放っておくと、うっすらとザラザラとした毛が生えてくる。
早速翌日から仕事に入った。
ずいぶんたくさんのチキンを解体しながら山のようなほうれん草も茹でた。飯も腹一杯食ったし、食後のビールも飲ましてもらった。満足であった。落ち着いてまわりが見えるようになるとふと、妙なことに気がついた。毎日英語をしゃべれないメキシコ人の皿洗いが2人来る。彼等と我々にはコミュニケーションが全く無い。彼等の待遇も全然違う。聞けば彼等は不法入国者で、他にも山ほどいるそうだ。どんどん人が入れ替わるし安い労働力だ。店の彼等に対する態度は苛めに近いものだったが、いかにも当然といわんばかりに、誰もそれを気にするものはいなかった。恐怖心に支配されている彼等はなにも言わずに次々と入れ替わっていった。そして僕にはどうしても許せないなにかが、日々心に重たい枷をはめていった。

ブリーカーストリートにはジャムセッションができるクラブがいくつかある。日曜日には”The Other End”、月曜日には”Kenny s Castaway”、でセッションに参加した。この”Kenny s Castaway”では70年代、小野ヨーコがジョンから独立しようとしていたころ、自分のバンドを作り小さなクラブで最初からやり直そうと一週間ギグをブッキングしたところだった。昔まだビレッジがアーティストで生き生きしていたころだと思う。

僕は毎日このてのクラブに顔を出してセッションがあれば必ず参加した。ずいぶんいろんな連中に出会ったと思う。でもみんな自分のことに精一杯で、お互いそこで出会うだけで相手のことなにも知らないし、知る必要もなかった。みんな勝手なことを考えてるし、お互いあまりにも違うので、興味すら持たない。ただ演奏がうまいヤツだけ残っていった。ただしうまいといってもロックだからテクニックと言うよりはセンスの問題だけだった。その日残った連中はまた来る、そこでしか会えないから、そこ以外で会うのも恐いのだ。お互いどんなバックグラウンドか判らないし、とにかく巻き込まれたく無いんだ、人の事には。でっかい黒人のボーカリストから電話がかかって来た時には、「おれのダイヤの指輪を知らねえか」、なんていわれたこともある。