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て、話をもとに戻そう。その、屋上のあるアパートに入れたのはラッキーだった。もともと光明さんというピアニストが住んでいた部屋に、彼が日本へ帰るというタイミングで入れ代わりに入れたからだ。ルームメートはブロードウェイを目指す日本男児。彼は几帳面な性格で、部屋はとてもきれいだし、いろんな事がよくオーガナイズされて、とても住みやすかった。当然家賃も割安で、僕は夢に燃えて、意気揚々と暮らしはじめた。
まずは最初にバイト探し。ガリガリに痩せて、頭を剃った僕は、ルームメイトの紹介で7th. Avenueの、 とある日本料理屋に入った。店長以下皆様さすがに少しぎょっとしたが、ここはニューヨーク、誰でも受け入れてしまう懐の深い街。キッチンヘルパーの仕事にありついた。これで毎日飯が食える。
毎日やる事は決まっている、山のようなほうれんそうを茹でて、なん箱もチキンのもも肉を骨から外す。 煮えた油に指を突っ込みながら、テンプラを揚げる事も覚えた。そういえばレストラン修行はボストン時代から始まっている。
最初は皿洗いだった。皿洗いのこつはリズムだ。景気よくやっていかないと疲れて腰を悪くする。実際僕は腰痛で立てなくなって救急車で運ばれた時もある。だから体でリズムをとって足腰をうまく使わないとダメだ。だけど、一つだけ注意する事がある。それは水につけたフォークの束を取り出す時だ。うっかりすると爪のあいだにフォークが突き刺さる。血が出て痛い目に合う。だから、リズムはとめられないが気も抜けない。
ああ、そういえば、そのあとはバスボーイっていうのをやった。これは客の残した皿をせっせと下げる役だ。人前に出るので、歌なんか歌っていられない。でも、ずーっと機械相手にガッシャンガッシャンやっているよりは、開放感があっていい。ウエイトレスとも話ができるし最後にチップの分け前にもあずかれる。
そのあとは料理も作って寿司も握った。魚もおろせる。
ミュージシャンっていうのは器用なものだ。板前になった方が、早く一人立ちできるだろうな。
そんなわけで僕はニューヨークの7th. Avenueの、とある日本料理屋で食材相手に格闘していた。
その頃、働いていた仲間は、今、どうしているのか、全くわからない。
みんな、アーティストだったり、血気盛んな夢を見ている連中ばかりだった。そして、僕はヤバーい雰囲気の中でずいぶんと精神をすり減らして行った。
細く長く、僕の中で日本を出てからも繋がって来た糸が、ついに切れそうになっていたのだ。
僕の中の細い電線は、周りのビニールが段々溶けて来て、芯がショートし始めた。
バイトの中に、完全に閉じ込められたと思ってしまった僕は、袋小路のネズミのようになり始めていた。
人は、そんなときにこそ、本質が出るのかな。
突破口はどこにあるのだろう、それは、正義に向かうときの人の、どうしようもない不正に対する犠牲的な体当たりだとしたら、そのエネルギーはもっと、自分のために使うべきだったと、あとで後悔することになるのに、
結局、店をやめる理由は、「あいつのやり方が気に食わない」、程度のことで、喧嘩になりそのまま飛び出すはめになる。
次の日から、もう、腹一杯のマカナイは無い。
途方に暮れる生活が、夏に始まったのはラッキーだった。